朝散歩のついでに、歴史探訪 .....

author photo

Bychaospapa

2018_0409_中島公園_01
雪が残ってるし 2℃の気温は、手が悴んで冬に舞い戻った感じがする

2018_0409_中島公園_02
おはよう! カモちゃん ..... すっかりルーチン化してしまったね

2018_0409_中島公園_03
オシドリが2羽 .... 遠いのよ! 近くに来ないかと待っていたが あきらめる?

2018_0409_中島公園_04
以前に買っていた「島義勇伝」を読み直して、思いだしたから .....
札幌建設の地 碑
この地は 錢函から千歳に抜ける道と藻岩山麓を通り 篠路に行く道路との交叉点に當たり
明治弐年拾壱月拾日 開拓判官島義勇 石狩大府の建設をこの地から始め その志をついだ岩村判官は 同四年参月札幌の町割をこゝを中心として行い 民家を建てることを許した
今日の札幌市はこの附近を基点として発達したのである
 北海道里程元標は、明治六年の太政官布告により、北海道の道路の起点であることを示すため、創成橋の東袂であるこの地に置かれた
正面となる南面には北海道里程元標の表記、北面には設置年月が記され、東西面には、駅等の交通の要所に設置される里程標の距離が記載されていた 当時の標柱はヒノキ又はトドマツ製で一尺角(約30センチメートル)、高さが一丈二尺(約363センチメートル)あり、高層建築物が無かった頃、遠方からでもその存在が容易に確認でき、明治時代の北海道開拓に際し、人々の往来や物流を支え、陸路の標として活躍したであろうと思われる
 その後、大正八年に旧道路法が制定され、道路の起点を表す標柱は道路元標へと変わり、設置場所も北三条西六丁目の北海道庁前へと移り、木製の里程元標の行方は不明である
 ここに建立した標柱は、北海道開拓の起点としてのこの場所の存在を、創成橋とともに後世に伝えるため再建したものである 再建にあたり、当時の記録が存在していない西面の里程の記載については、文献や地図を参考に推察し復元した            平成二十三年三月 札幌市

2018_0409_中島公園_05
札幌開拓の先駆者・大友亀太郎は、天保五年(一八三四)に現在の神奈川県小田原市で生まれた
二宮尊徳の門に学び「人の一生は 金銀財宝に富めるにあらず、積善の道に如かず」を信念とした
安政五年(一八五八)に渡道し、慶応二年(一八六六)には箱館奉行に蝦夷地開墾の計画書を提出するとともに石狩地方開拓の命を受け、札幌市東区(旧・元村)に土地を選んで開墾し、札幌の町づくりの発端となった
明治二年(一八六九)これを開拓史に引き継ぎ、翌三年、札幌を去った
亀太郎が掘った大友堀は今日の創成川の基となって街の中心部を流れ続けている

2018_0409_中島公園_06
最初は掘ったんだって ..... 昔の人には敵わないなぁ!(秋本、真面目にやれよぉ〜)

2018_0409_中島公園_07
慶応2年(1866年)大友亀太郎が大友堀(用水路)を開削
明治2年(1869年)判官 島義勇が大友堀を東西の基軸として街づくりを開始、大友堀の上に丸太を置き板を敷いただけの創成橋の原型ができる
明治4年(1871年)大友堀の拡幅に伴い手摺り付の橋長7.8mの木橋が架けられ、判官 岩村通俊が橋の名を「創成橋」とする
明治7年(1874年)「大友堀」→「創成川」に改名
明治13年(1880年)北大通の1条西1丁目に豊平館が建設される
明治18年(1885年)南1条西1丁目に木造の巡査交番所(南1条交番)が建設される
明治19年(1886年)人口が1万人を突破
明治43年(1910年)創成橋が石橋に架け替えられる
明治44年(1911年)南1条交番が近隣者の寄付を得て赤レンガに立て替えられる
大正7年(1918年)創成橋を通過する路面電車(1条線)が開通
大正9年(1920年)人口が10万人を突破

(夫)


Share

Comments 0

Leave a reply